父の日は、誰の何を労う日? 父の日に考えたこと

父の日は、母の日ほど、盛り上がらませんし、脚光を浴びません。どうしてなのでしょう。家族が労ってくれた日ですが、少しばかり考えてみました。
小西 一禎(元駐夫の大学教員) 2026.06.22
誰でも

 

盛り上がらない理由

 6月の第3日曜日。母の日ほどの注目を浴びることなく、商戦もいまいち。カーネーションのような象徴する花もなし。う~む。

 国際男性デーが盛り上がらないのは「歴史が浅いから」だと説明がつきます。

 だが、父の日は異なります。母の日と同じ歴史を持ちながら、商業的な熱量にも、人々の心の傾きにも、はっきりとした差があることは論を待たないでしょう。

 なぜか?

 男性優位の日本社会。メディアも商業も男性男目線ゆえ、自らを祝う発想に乏しい・・・。

 そう論じることもできるはず。

意識と構造

 昨年来、意識と構造に着目し「意識の背景には構造が、構造の背景には意識がある」と考えています。

 その文脈で考えてみると、父の日と母の日は、そもそも「何への感謝」なのでしょうか。

 父は役割で、母は存在で労われると言えるのではないでしょうか。

 父の日を思い浮かべてください。

 プレゼントとして贈られるネクタイ、ビール、ささやかな食事。そこに流れているのは「いつも働いてくれてありがとう」という労いです。

 父は「稼ぎ」という役割で労われます。感謝の対象が、父という存在そのものではなく、父が果たしている機能・役割に向けられています。

では、母の日は?

 対して母の日はどうでしょう?

 共働きが当たり前になり、母の多くが稼ぎも担う時代になりました。

 にもかかわらず、母の日に向かう感謝は「いつも働いてくれて」だけで収まりません。家事も、育児も、情緒的な気配りも、稼ぎも、すべてが渾然一体となって「母という存在まるごと」へ捧げられます。

 役割への労いではなく、存在への感謝。ここに、見過ごされがちな非対称があるのではないでしょうか。

 父は役割で労われ、母は存在で労われる。

 一見する限り、母の方が手厚い扱いに思えます。

 とはいえ、裏返せば、母には「母であること」から降りる選択肢が、最初から想定されていない。役割への感謝は、その役割を果たさなければ目減りします。というものの、存在への感謝は無条件のようなものであるがゆえに、重さが伴います。

 父の日のあっさりした温度と、母の日の過剰なまでの情緒性は、別々の現象ではありません。同じコインの裏表です。

ケアを担う父が増えてはいるものの

 私自身、駐夫として3年あまり米国で過ごした暁には、稼ぎを持たず、ケアを担う側に回りました。

 立ち上げた駐夫グループのメンバーは250人ほど。専業主夫が増えているとの報道もあります。

 にもかかわらず。

 ケアを担う父が増えても、父が労われる回路は、いまだ「稼ぎ」をデフォルトに設計されたままです。家族ケアを主として担う男性が一日中、子の世話に追われ、日々の献立に頭を悩ませ、夜泣きに付き合ったとしても、残念ながら父の日のフォーマットは、そこに向かうことは極めて稀でしょう。

 固定的・硬直的な性別役割分業意識が影を落とし、今を生きる父親像が少しずつ変化しても、父の日を迎えた父が「いかに祝われるか」、「どれほど労われるか」についてのトレンドは中々変わっていません。

 こうしたズレこそ、いま見つめるべきものではないでしょうか。

問題の所在はどこに?

 問題は、男性が自らを祝わないことではありません。

 父の日という建付けが、ケアを評価する形に作られていないことにあると考えます。と同時に、母には「すべてを担って当たり前」という無言の前提を押しつけていると思います。

 父は仕事という機能に縛る一方、母を存在ごと抱え込ませる。この古い様式は、男女の双方を、それぞれ別のかたちで役割の檻に閉じ込めていると指摘せざるを得ません。

 

新たな「父の日像」を!

 役割が硬直し、どなたが特定の機能に固定されると、その組織は変化に対応しきれなくなり、脆弱性を増します。

 家庭も社会も、同じ構造です。父は稼ぐもの、母は支えるもの――

 こうした硬直的思考は、心地よい安定に見えたとしても、実は私たちの足元を脆くしています。地方の人口流出も、職場の生きづらさも、原因は通底し、遠くない場所で根はつながっています。

 父の日が、稼ぎだけでなく、ケアby父親を労う日になること。母の日が、存在への無条件の重荷を少し下ろせる日になること。

 社会の認識がほんの少しでも変われば、、、父も母も、役割という重しから半歩だけ自由になれると確信します。

駐夫に対して、我がキッズは?

 駐夫時代、キッズを日系幼稚園に通わせていた時のこと。

 母の日のプレゼントを贈る授業参観は平日に行われ、我がキッズは他の子と違って、一人だけ父親(私)に渡してくれました。

 一方、父の日のプレゼントを贈る授業参観は日曜日に開催されました。そして、我がキッズは他の子と同様、父親(私)に渡してくれました。

 その違いについて、キッズに尋ねたところ、なんと答えたか??

 「特になんとも思わなかったよ」

 その一言にどれだけ救われたことか!!!

 

 ※前記事から、かなり間が空きました。お読みいただきまして、心より感謝いたします。どうもありがとうございます!

 

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