なぜ、男性はジェンダー問題を「自分事化」できないのか?
決して無関心ではない
「大切なテーマだとは思うが、自分の問題ではない」。
そんな受け止めが、今も根強く存在しています。
男性がジェンダー問題を自分事化できないのは、無関心だからではありません。むしろ、自分と結びつけて考えるための回路が、社会の側に用意されてこなかったからではないでしょうか。
日本社会は長らく、「男性稼ぎ手モデル」を前提に設計されてきました。そして、それは今も続いています。正社員として長時間働き、家計を支える存在。制度や雇用慣行、評価軸の多くは、この男性像を「標準」として組み立てられてきました。
標準であるがゆえに、男性は自分の立場を意識する必要がありませんでした。問題は常に「女性」や「少数派」の側にあると認識され、男性は当事者の輪の外に置かれてきたのです。
しかし、その標準は、男性に恩恵をもたらす一方で、同時に男性自身を縛ってもきました。「男は稼いでナンボ」「仕事を最優先すべきだ」という価値観は、家庭から男性を遠ざけ、キャリアの柔軟性を奪い、心身の不調を抱え込ませてきました。近年、男性の更年期障害も少しずつ知られるようになり、男性の健康問題が顕在化しつつあります。
「弱音を吐くな」、苦しみは内在化
それでも、男性の生きづらさは、長らく社会問題として扱われてきませんでした。「弱音を吐くな」「それは自己責任だ」。そうした言葉の下で、男性の苦しさは内在化され、個人の問題として処理されてきました。問題として言語化されなければ、当事者意識は生まれません。男性がジェンダー問題を自分事として捉えられなかったのは、ある意味で必然だったと言えるでしょう。
さらに、ジェンダーが「思想や価値観の対立」だと誤解されてきたことも大きな要因です。ジェンダーは本来、働き方や家庭のあり方、キャリアや健康といった、極めて生活に密着した問題です。ジェンダー規範に基づく性別役割分業・分担は、社会によって形成されてきた文化や制度の産物であり、自然不変のものではありません。変えられるものだという認識がなければ、男性が議論の当事者になることは難しいでしょう。
私自身、政治記者として永田町を取材していた頃、ジェンダーを「構造の問題」として深く意識していたわけではありませんでした。むしろ、ジェンダーや男女共同参画という言葉を聞くと、完全に耳を塞ぎ、意識的に遠ざけていました。内閣改造のたびに書かれる「女性閣僚は〇人」といった定型的な記事についても、その必要性に疑念を抱いていました。要するに、他人事だったのです。
ジェンダーは個人の問題なのか?
その後、米国で「駐夫」という立場に立ち、価値観が大きく揺らぎ、見える景色は一変しました。立場が変わると、制度や慣習の歪みが否応なく可視化されます。ジェンダーは個人の意識の問題ではなく、社会の設計の問題なのだと実感するようになりました。
子どもは親の背中を見て育ちます。次世代は、私たち大人の生き方を、そのまま引き継ぎます。男性が変わらなければ、社会もまた変わらない――これは間違いないでしょう。
ジェンダー平等と聞くと、「責められている」と感じる男性は少なくありません。何を隠そう、駐夫に転身するまでの私自身がそうでした。田嶋陽子氏や上野千鶴子氏の言動を、苦々しく感じていた時期もあります。
しかし、ジェンダー平等は男性を責めるためのものではありません。男性の居場所が失われるわけでもありません。そうではなく、男性自身の人生の選択肢を広げる試みなのです。自分が「標準」に置かれてきたこと、その標準が実は自分自身も傷つけてきたこと。その事実に気づいたとき、ジェンダー問題は初めて、男性にとっての「自分事」になるのではないでしょうか。
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