「ワンキャラクター選挙」は、どうしても容認できない! ~衆院選で考える・その2~

 真冬の衆院選は第3コーナーを回りかけ、最後の直線に差し掛かる頃合いになりました。今回は、ジェンダーの話はお休みにして、元政治部記者として、いかんとも容認しがたいことについて、少しばかりまとめてみました。わたし、怒(いか)ってます。それも、かなり。
小西 一禎(元駐夫の大学教員) 2026.02.04
誰でも

政策の是非ではなく「私か、否か」の独善が招く民主主義の終焉

異質な「ワンパーソン、ワンキャラクター選挙」への憤り

 今回の衆院選において、私たち有権者が抱くべきは、単なる戸惑いを超えた「憤り」ではないでしょうか。首相が「私を選ぶか、否か」を最大の争点として掲げている現在の事態は、日本の議会制民主主義の歴史において、極めて異常、尋常ならざる事態だと指摘せざるを得ません。

 本来、総選挙とは各党・各候補者が掲げる政策や国家ビジョン、そして限られた予算をどこに優先的に配分するかを国民が吟味し、付託するためのプロセスです。しかし、現在展開されているのは、具体的な政策論議を置き去りにしたまま、特定の「個人」に対する忠誠か反逆かを問う、あまりに私的な信任投票に変質してしまっています。

 小選挙区制の導入以降、党首の「顔」が選挙結果を左右する傾向は確かに強まりました。いわゆる「党首力」に負うこと大です。ですが、それはあくまで「党の代表」としての総合的な評価であったはず。今回のように、政策の裏付けも理念の提示もなく、ただ「私自身」を審判の俎上に載せる手法は、私たちがこれまで経験したことのない異質さを放っています。

 私たちは、最高権力者のキャラクターを崇拝するために、あるいは否定するために、そんな争点設定に従いながら、投票所へ向かうわけではありません。「YES」はともかく、「NO」=「首相へのNO」との枠にはめるほど単純なものでもありません。それだと、争点設定に乗っかることになってしまいます。

郵政選挙から退化した「ワンイシュー」の罠

 かつて、ワンイシュー(単一争点)選挙の代表格とされた「郵政選挙」を振り返れば、その差は歴然としています。私事ですが、地方での修行を終え、念願の政治部記者となった2005年のこと。小泉純一郎首相(当時)は「郵政民営化に賛成か反対か」を国民に問いました。参院で否決されたのに、衆院解散に踏み切ったこと、強引な「刺客」の大量投入、政治の劇場化、「郵政民営化は外交にも寄与する」などと意味不明なことまで記し尽くしたマニフェストなど多くの批判もありましたが、争点はあくまで「郵政民営化」という巨大な行政改革・政策の是非に置かれていました。

 ちなみに、その選挙、4日に1回の割合で総理番記者として、小泉氏と全国を行脚しました。街頭演説会場のみならず、新幹線の駅などを歩いている際も「小泉さ~ん」と声援が飛び、それはそれは凄まじい熱狂でございました。(※『国宝』を読んでいる最中なので、この表現を使いたくなりました笑

 しかし、今回の選挙はそれとは全く次元が異なります。かつての郵政選挙が、政策の是非を問う「ワンイシュー」であったなら、今回の選挙は、一人の人物への服従を問う「ワンパーソン」、あるいは実体のない「ワンキャラクター」選挙への堕落です。

 政策(プログラム)の選択ではなく、個人(アイドル)への帰依を迫る。このような展開に、多くの有権者が置き去りにされ、自分たちの知性を軽視されていると感じるのは当然のことです。

「白紙委任」の先に待ち構えるもの

 もし、この「人物選択」の選挙で勝利を収めたら(ネット+電話調査のノウハウを完全に掴んだ朝日30万人調査は与党300議席を弾き出しています)、政権側は「国民からの全面的な白紙委任」として強調するでしょう。野党が打ち出してきた消費税減税を非争点化するために「悲願」と感情的な言葉でごまかし、中盤で予定されていたNHKの党首討論生放送は「キャンセル」する。街頭演説では、政策を極力語らない。全国の候補者は「首相と仕事をさせて」と人気に乗じる、そんな選挙であるにもかかわらず。 

 国民・有権者に政策の中身を十分に精査させる機会を奪い去り、勝利を盾に、「私が選ばれたのだから、私のやることはすべて正しい」という、極めて傲慢な暴走が始まるのは火を見るよりも明らかです。

 そこには、異論に耳を傾ける寛容さも、丁寧な説明を通じて合意を形成する民主的なプロセスも存在しません。あるのは「従うか、去るか」という冷徹な選別だけです。このような「やりたい放題」の政治を許してしまえば、国民世論は置き去りにされ、自民党内は単一化が進みます。論戦の場であるはずの国会は形骸化し、権力の暴走を止めるチェック・アンド・バランスの機能は完全に崩壊してしまいます。

私たちが守るべきは「主権者=国民の未来 」

 今回の選挙で問われているのは、首相という個人の魅力などという矮小な話ではありません私たちが選ぶべきは、権力者の顔色をうかがう未来ではなく、誰がリーダーであっても公平にルールが適用され、誠実に政策が議論される「健全な民主主義」そのものです。

 特定の「個人」への執着と、それに伴う報復的な政治手法は、この国の根幹を腐らせる毒となります。私たちは「人物」という舞台装置に惑わされることなく、その裏側にある権力の暴走を厳しく監視しなければなりません。この選挙を、独裁的な白紙委任の場にしては絶対になりません。

 私たちの手にある一票は、権力者に忠誠を誓うための証書ではなく、権力を監視し、国民の平等を守り抜くための尊い武器なのです。残り数日間、一段と目を凝らす必要があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下は、あり得ない話ではなく、頭の体操としてお読みください

 さらに深刻な懸念は、自民党内の権力闘争の論理――すなわち、敵対勢力を排除し、非主流派に「冷飯」を食わせるという冷酷な力学が、国家運営や地方自治の現場にまで拡大されるのではないかという点です。

 自民党総裁選において、敗北した陣営がポストから外されるのは、政党内の権力闘争の一つです。石破政権の逆バネを突き進む現政権は、前政権批判を強力なまでに推し進めました。しかしながら、その「復讐の論理」が国民や地方自治体に波及すれば、それはもはや民主主義とは呼べません。

 例えば、野党が勝利した小選挙区の自治体に対し、予算を削り、事業を後回しにするような「干し上げ」がないとは言い切れません。実際、その逆はあるわけで、露骨な利益誘導となる予算の箇所付けは以前から行われてきました。今回の「私を選ぶか否か」という極端な姿勢を見る限り、それがより表面化し、先鋭化した、露骨な形で行われないとは限りません。

 

 海の向こうに目を向ければ、この懸念は、決して単なる取り越し苦労ではないかもしれません。トランプ米大統領は1期目以上に「分断の統治」を展開しています。民主党知事が君臨する州、民主党の力が強いエリアに対し、連邦予算の配分や災害支援において極めて厳しく、時には弾圧的ともいえる姿勢で臨んでいます。州兵の派遣、移民税関執行局(ICE)の横暴ぶりはその典型例です。

 「味方には恩恵を、敵には制裁を」という敵味方の峻別は、国家の連帯を根本から破壊し、市民の間に深い溝を作り出しました。現在の首相が掲げる「私か、否か」という二元論は、このトランプ的な手法と不気味なほど共鳴しています。

 政治的信条や投票行動を理由に、特定の地域の住民が不利益を被るようなことがあれば、それは公権力の私物化であり、憲法が保障する地方自治の精神に対する明白な挑戦です。一度こうした対立構造を持ち込めば、国民の政治不信は修復不可能なレベルにまで達するでしょう。

無料で「男が変われば男女ともラクになる 「自分事」で捉えるジェンダー」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
問われる「家族のあり方」と「個人の尊厳」:各党のジェンダー政策 ~衆院...
誰でも
なぜ、ジェンダー平等=「リベラル」と呼ばれてしまうのか ~衆院選で考え...
誰でも
冬休み番外編① 収入ゼロになったときの心構え キャリア中断の駐妻・駐夫...
誰でも
なぜ、男性はジェンダー問題を「自分事化」できないのか?
誰でも
国際男性デーに寄せて