なぜ、ジェンダー平等=「リベラル」と呼ばれてしまうのか ~衆院選で考える~

 急運風を告げるかの如く、衆院解散・総選挙の流れが一気通貫で完成しました。解散はいずれ来るものなので、驚きは限定的でしたが、中道(リベラル)勢力の結集はビッグサプライズ。ゲームチェンジャー、将来的な政界再編に繋がる可能性もあるのではないでしょうか。来たる衆院選を機に、元政治部記者のジェンダー研究者として、この3カ月モヤっている思いを解きほぐす論考をお届けします。
小西 一禎(元駐夫の大学教員) 2026.01.16
誰でも

ジェンダー政策は、リベラルなのか??

 ジェンダー平等政策を推進、擁護する言動を展開すると、「リベラル」と評されることがあります。選択的夫婦別姓を支持すると、「左派的」、「急進的」とラベリングされる場面も少なくありません。しかし、冷静に考えてみると、これは不思議な現象です。

 ジェンダー平等は、既に多くの先進国で制度として定着しており、特定のイデオロギーに属する政策とは言い難いものです。それにもかかわらず、日本ではなぜ、これほどまでに「リベラル」と結びつけられてしまうのでしょうか。

 ジェンダー平等や夫婦別姓の是非を論じることから少し離れて、「なぜ日本では、世界の潮流に近づく政策が『リベラル』と名指しされてしまうのか」というモヤモヤの本質に迫ってみたいと思います。

日本社会に残る、非対称的なジェンダー構造

 この問いを考える上で、日本社会が長く抱えてきたジェンダー構造を無視することはできないでしょう。法制度としてのイエ制度は廃止されましたが、その価値観や役割意識は、社会の深層に残り続けています。男性が稼ぎ、女性が家庭を担うという役割分業は、時代とともに形こそ変えながらも「当たり前」として、社会や個人に内面化されてきました。

 畢竟、家事・育児における男女の負担バランスを見ると、日本は先進国の中でも際立って不均衡です。ありとあらゆるデータで明らかです。これは単なる個人の選択の積み重ねではなく、社会構造として男性優位が温存されてきた結果だと言えるでしょう。

 こうした社会では、ジェンダー平等を求める言説が、しばしば「現状否定」として受け止められがちです。「これまでの生き方を否定された」、「自分たちが間違っていたと言われた」と感じる人も少なくありません。ジェンダー問題が他の政策分野と比べて感情的な対立を生みやすいのは、このためです。

そして、感情論に直結する

 外交・安全保障、社会保障や税制などと異なり、ジェンダーにまつわる問題は、人それぞれの価値観や生き方に繋がります。結婚や仕事、家庭、アイデンティティといった「私的領域」と深く結びついているため、政策論が容易に感情の問題へと転化してしまいます。

 とりわけ、男性側にはジェンダー平等によって「自分の守備範囲が奪われるのではないか」という不安や懸念を抱く人が一定数存在します。必ずしも既得権益への執着というより、役割を失うことへの恐怖に近いものです。メインで稼ぐ役割、家庭の一切を決定する役割、家族の中心であるという感覚が揺らぐことへの不安が、反発として表に出てくるのです。

 こうした感情は、「保守」という言葉によってふわりと包み込まれ、正当化されることがあります。

保守とリベラル、本来の意味とは

 ここで改めて、保守とリベラルとは何かについて、確認しておきたいと思います。本来、保守とは社会の連続性や安定を重視し、急進的な変化を避ける立場です。しかしながら、その立場は、現実と乖離した制度を無条件に固定化することを意味するわけではありません。社会の変化に応じて制度を調整することもまた、保守の重要な役割です。

 一方、リベラルは個人の自由や選択を尊重し、国家や慣習による過度な拘束を嫌う立場です。この文脈に従えば、姓を自由に選択できる夫婦別姓制度は、本来は穏健な政策だと言えるでしょう。ジェンダー平等は、個人の選択肢を広げるという点につながるのですから。

 にもかかわらず、日本ではこれらが「リベラル政策」として特別視されてきました。

 ここに、概念のねじれがあります。極めて、不幸な事象です。

高市政権とラベリングの加速

 近年、そのねじれを強めた要因の一つが、高市政権の登場です。同政権がどこまで「保守」と呼べるのかについては、実際多くの議論がなされていますし、今後も議論の余地があるでしょう。ただ、確実に言えるのは、少なくともジェンダー平等政策について後ろ向きであること。これは明白です。

 その結果、ジェンダー平等に賛成する立場は、高市政権への対抗軸として位置づけられ、「保守の反対=リベラル」という単純な構図に押し込められてしまいました。これは、政策内容とは無関係に、対立構造によって立場がリベラル化されていく現象だと言えます。

 象徴的なのが夫婦別姓制度です。高市政権以前、夫婦別姓は必ずしもリベラルの専売特許ではありませんでした。というよりも、1996年の法制審議会は同制度の導入を提言したにもかかわらず、政治の場では、ごく一瞬の期間を除いて、議論の俎上にすら上っていなかったという方が正確でしょうか。

 それが近年、急速に「リベラル色」を帯びたのは、政策そのものが変わったからではなく、政治状況が意味づけを変えたためです。2024年の自民党総裁選では、夫婦別姓制度が論点の一つとなりました。直後の衆院選でも、主要争点の一つとなり、各党が論戦を交わしました。当初、制度推進に賛意を表明していた石破茂首相(当時)は、途中で「腰砕け」となりました。そして参院選敗北後の総裁選で、高市政権が登場したという流れになります。

自民党の政治的不作為

 前述しましたが、自民党の長年にわたる政治的不作為は、見落とせない大問題として明確に指摘しておかなければなりません。保守もリベラルも内包する、良く言えば幅広な国民政党でありながら、夫婦別姓を含むジェンダー政策について、決断や導入を先送りしてきました。この停滞は、イデオロギー対立というより、党内調整や選挙への配慮といった現実政治の問題によるものです。

 政治的遅滞が招いた大きな代償として、ジェンダー政策は「リベラル案件」として固定化され、議論の幅は狭められてきたと言えます。メディアが大きく取り上げる機会は、殆どありませんでした。政治をウォッチする現場にいた者の1人として、私自身もその責任を少なからず感じています。

保守、リベラルの対立を超えて

 ジェンダー平等は思想ではありません。現実への適応です。世界の潮流に近づくことを「リベラル」と呼ぶのであれば、問われるべきなのは政策そのものではなく、それをそう名付けてきた日本社会の認識のあり方ではないでしょうか。

 ジェンダー平等を巡る議論に必要なのは、善悪の二元論でも、保守とリベラルの二項対立でもありません。概念のねじれを解きほぐし、現実を直視する冷静さです。

 ジェンダー政策に脚光を浴びせ、国民の関心を高めるという点において、ほぼ相似の政策を掲げる中道勢力の塊が出現することの意味は、小さくありません。不毛なラベリングを超越した、骨太で本質的な論戦を心の底より望むばかりです。

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